株おばちゃん

祝いの染め桶と、引き出しにしまった小さな疑問

このお話は、株おばちゃんの妄想による完全フィクションです。登場する人物・団体・商品・場所・時代はすべて架空のもので、実在のものとは一切関係ありません。

今朝は少し冷えましたので、棚の奥から古い急須を出してまいりましたの。縁がほんの少し欠けておりますけれど、このほうが手になじみます。湯気を眺めておりましたら、ふっと昔話を思いつきました。あれは、わたくしがまだ若かった頃でしたかしら、などと始めたくなるお話ですわ。

商店の帳場に小さな表示機が置かれて、買い物の途中でも株の値動きを確かめられるようになった頃のお話です。花の鉢を運ぶ荷車が行き交う、丘と運河に挟まれた町でしたの。もちろん、何もかもわたくしの妄想から生まれた作り話ですから、そのおつもりでお聞きくださいましね。

一 花便り板の前

町の広場の端に、花便り板が立っていた。

黒い板の上で、白い文字が静かに入れ替わる。倉庫の予約状況、それから宵棚社の株の売買値。朝の荷車がまだ石畳を鳴らしているうちから、板の前には人が集まった。

宵棚社は、鉢花を暗い棚で預かる会社である。花の開く時期をずらしたい生産者のために、遮光と温度管理を備えた夕待ち棚を貸し、保管料を取る。少額の預け金を払えば仮予約ができる仕組みで、その予約数がこの春から板に出るようになった。

数字は日ごとに伸びた。

「将来の保管料が、見る間に積み上がっているということだな」

八百屋の主人が板を見上げて言った。隣の仕立て屋も、うなずいた。買い手が増え、宵棚社の株は、半年で三倍近くに。

トワネは祭礼衣装の繕いを仕事にしている。袖口のほつれ、金糸の剥がれ、裾に染みついた酒の跡。そういうものを直して暮らしてきた。糸の本数を数えるのは得意で、数字を軽く信じることは、昔から苦手だった。

板の前で足を止めるたび、彼女は同じことを思い出した。

花の出荷をまとめるサユネが、先月、仕事場にショールを預けに来たときの話だ。

「花ってね、咲き具合が読めないのよ。だから同じ鉢のために、違う週の棚も押さえておくの。どの週に当たるか分からないでしょう。あとで要らなくなった分は、取り消せばいいだけだもの」

サユネはそう言って笑い、針箱の蓋を指でつついた。相場の噂には本当に疎い人で、板の数字の話になると、首をかしげて「そんなに増えているの」と言うだけだった。

仮予約は、実際に使う棚の数ではない。

トワネはその言葉を、糸の端のように指に巻きつけたまま歩いていた。

二 新しい染め桶

仕事場は、染物職人のミズホリと分け合っている。

奥の土間に藍の匂いがこもり、手前の窓際にトワネの作業台がある。二人は十年ちかく、そうして並んで働いてきた。

その朝、土間に見慣れない桶が据えられていた。

杉の肌が新しく、箍の銅が光っている。ミズホリは桶の縁を布で拭きながら、半分照れたように言った。

「宵棚社で、ちょっとな。春に買ったのが、思ったより伸びてくれた」

「まあ。立派な桶」

「古いほうは、もう底が怪しかったんだ。ちょうどいい頃合いだった」

昼には、通りの人々が見物に来た。八百屋の主人も、仕立て屋も、おめでとうと言った。誰かが持ってきた焼き菓子を囲んで、小さな祝いの席に。

トワネも笑って茶を配った。その手の甲を、ミズホリが気づかうように見ている。

「トワネさんも、少し乗ってみたらどうだ。あんたは堅実すぎる。堅実なのは立派だが、これだけ皆が潤っているんだ。せっかくの輪から、あんたひとり外にいるのは惜しい」

悪意の欠片もない声だった。だからこそ、返す言葉が見つからなかった。

「仮予約のことなのだけれど」と言いかけて、トワネは口を閉じた。

見回すと、皆の視線が、作業台の脇にある古い染め桶に落ちている気がした。繕いに使う布を染めるために、ずっと使ってきた桶だ。縁の擦り減ったところが目につき、頬が熱くなった。

疑うことが賢さではなく、取り残された者のひがみに見えてしまう。そんな場の空気が、焼き菓子の甘い匂いに混ざっていた。

その晩、彼女は机に向かい、宵棚社へ手紙を書いた。

仮予約のうち、実際に棚へ入った確定の利用数を教えていただけますか。取り消された予約は、どのくらいありますか。

読み返して、ペン先を止めた。この文面は、何も知らない人間の、場違いな質問のように見える。封をして、引き出しにしまった。

翌週、彼女は蓄えを下ろして、宵棚社の株を買った。

三 買い手の足音

買ってみると、不思議と気持ちが軽くなった。

板の前に立てば、自分も輪の内側にいる。八百屋の主人と目が合えば、互いにうなずき合えた。

誰もが、誰かの買い増しを見ていた。あの人が買った。あの人は事情に詳しい。ならば間違いはない。そんなふうに、確かめる手間は、人から人へ手渡されていった。トワネ自身も、ミズホリの桶を見るたびに、確かめたような気がした。

宵棚社は、株価の上昇を追い風に、丘の際に新しい倉庫を建て始めた。

槌の音が運河を渡って届く。町の誰もが、その音を景気の鼓動のように聞いた。

けれど、秋の初めに、花が揃って咲いた。

長雨のあとに気温が緩み、読めなかったはずの咲き具合が、どの畑でもほぼ同じ週に収まった。サユネの言う「違う週の棚」は、もう要らない。生産者たちは、不要な仮予約をいっせいに取り消した。

花便り板の数字が、朝のうちに三度、ひっくり返った。

予約数は、見るも無残に縮んだ。保管料として入るのは、公表されていた数字から思い描いていた額には、遠く及ばなかった。

それでも宵棚社の倉庫には、鉢花が毎日届いていた。荷車は動いている。棚も、使われている。何かが壊れたわけではなかった。

ただ、板の前の空気だけが、変わった。

四 空の桶

誰かが売り注文を出した。

板の文字が一行、赤く動く。それを見た誰かが、あの人は何かを知っているのではないかと言い、別の誰かが、隠れた悪材料があるのだと囁いた。理由を探す声が増えるほど、売りが売りを呼んだ。

トワネは、板の前に立っていた。

人垣の向こうに、ミズホリの顔があった。いつもは藍で染まった指先が、白く冷えている。唇の色まで、引いていた。

その青ざめた顔を見た瞬間、トワネの中で、何かが落ちた。

自分は、この会社の何を確かめて買ったのか。

自分に問うたが、答えは出てこなかった。ミズホリが買ったから。皆が祝っていたから。引き出しの中の手紙は、封をしたまま眠っている。

彼女は、その日のうちに売った。蓄えは、三日前の半分ほどになっていた。

数日後、宵棚社の株は底を打ち、少しだけ戻したと聞いた。けれどもう、板を見に行く気にはなれなかった。

十日が過ぎた夜。

戸を叩く音がした。ミズホリが、布に包んだ何かを抱えて立っていた。

「桶の縁を、焦がしちまった。火を落とし損ねてな」

新しい染め桶は、縁が黒くただれていた。杉の匂いに代わって、焦げた匂いがする。彼は目を合わせずに、続けた。

「あんたの古いのを、貸してもらえないか。……あれは、まだ置いてあるだろう」

「ええ。洗い場の奥に」

トワネは桶を出すのを手伝い、土間の水を替えた。

ミズホリが帰ったあと、机の引き出しを開けた。奥に、白い封筒がある。糊は乾き、角が少し丸くなっている。

彼女は封を切り、中の紙を取り出した。一行も消さずに、日付だけを書き直す。確定の利用数を教えていただけますか。取り消された予約は、どのくらいありますか。

翌朝、それを投函した。

仕事場へ戻ると、ミズホリが土間で古い桶を覗いていた。トワネは湯を沸かし、湯呑みを二つ出す。

返事がいつ届くかは分からない。それでも、お茶は二人分、ゆっくり蒸らした。

おばちゃんのひとりごと

この話を思い浮かべるたび、わたくし、トワネさんの手紙のことばかり考えてしまいますの。

誰かの成功がまぶしいと、自分の疑問は、ひがみのように思えてしまうものですわね。わたくしにも覚えがございますのよ。けれど、人の自信を借りて決めたことは、その人が怯えた途端に、自分でも支えられなくなってしまいます。借り物の自信は、貸した本人が手放せば、たちまち軽くなるのですわ。

個人的には、疑問を口に出せる人こそ、輪の中でいちばん落ち着いているように思いますの。

さて、お茶もすっかりぬるくなってしまいました。もちろんこのお話、ぜんぶ、おばちゃんの作り話ですわよ。

※この物語は妄想の完全フィクションです。実在の人物・団体・出来事とは関係ありません。また、特定の銘柄や投資手法をおすすめするものではありません。

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